昭和16年より内弟子として修行された山本角義先生の話によると、武田惣角(たけだそうかく)先生は柔術家であるが、10年か15年早く生まれていたら剣術家になって幕末の剣士として名を残していたのではないかと言っておられた。
山本角義(本名留吉)は、3万余人の門弟中最後の愛弟子として師匠より、おまえに総ての武術を伝授すると言われ唯一人合気の秘法と真剣術を伝授された人物である。数年を要してその剣に大東流の理合を加え、まとめたのが現在の無限神刀流居合術である。
武田惣角が伝授された会津小野派一刀流は、剣術師範であった渋谷東馬より明治2年会津坂下養氣館で教授されている。
渋谷東馬は会津藩医であった父、生江寛隆(なまえかんりゅう)の第三子として天保3年(1832)10月13日会津坂下(アイヅバンゲ)で生を受ける。明治37年5月6日73歳で逝去、お墓は福島県会津若松市坂下定林(ジョウリン)寺にある。東馬は渋谷家で男子がなく、それで養子として迎えられたものである。尚、東馬の剣の師匠は不明である。
会津小野派一刀流は、今日数多くある他流派の型剣だけではなく実戦的な木刀の使い方をしている。それは会津戊辰戦争で官軍と実際に戦った刀法によるものである。それを武田惣角は受け継いでいるのである。山本角義は武田惣角に直接伝授されている。惣角は山本に「会津は剣では負けなかったが、新式の鉄砲に負けた」と言っている。
武田惣角が養子に入ったと言われた、黒河内伝五郎は会津藩第一の武芸者として名高く武芸百般と言われた人物であったが、50歳代中より眼病により失明されている。慶応4年長子百太郎(43歳)が会津戊辰戦争で重傷を負いもはやこれ迄と悟り百太郎を介錯して二子百次郎(34歳)と共に自分も自害して果てた、時に黒河内伝五郎享和2年(1802)に生を受け66歳の生涯であった。お墓は福島県会津若松市阿弥陀寺にある。
武田惣角は明治初年、江戸(東京)車坂に道場を開いていた榊原鍵吉に師事、直心影流剣術を教伝される。
榊原鍵吉は幕末講武所剣術教授方で300石。第14代将軍徳川家茂公の剣術指南をした人物でもある。明治20年伏見宮邸において明治天皇御前で兜割りをされ、みごと3寸5分斬り込まれている。
鍵吉は天保元年(1830)11月榊原友直の子として生を受け、13歳で直心影流幕府講武所奉行3000石、男谷信友の道場に入門、明治27年9月11日65歳で逝去。お墓は東京四谷南寺町西応寺にある。
尚、武田惣角先生は、柳生新陰流剣術はされていない。
武田惣角源正義先生は昭和18年4月25日青森市旅館伊東方で逝去、山本角義が死に水をとられている。
現在お墓は北海道網走市台町曹洞宗法竜寺にある。
山本角義先生は昭和57年1月30日逝去。お墓は北海道苫小牧市第2霊園にある。霊(みたま)は青森県東津軽郡平内町大字外童子 松緑神道大和山御本山に奉られている。
定林寺山門 | 「渋谷昌甫(東馬)・イン 之墓」とある。 | 渋谷先生生年と没年 |
流祖の墓前に祈る長尾先生 | 定林寺庫院 | |
定林寺拝殿 | 渋谷家墓所 ご子孫は東京へ移られている。 | 家老屋敷の土筆 撮影日:2007年5月15日 |