山本角義(やまもとかくよし、本名留吉)は大正3年3月3日生
昭和12年頃より会津郷士武田惣角に入門する、当時若い山本は板前で店に食事に来店した武田惣角先生を人相の悪い爺さんが来たなという印象があったそうである。惣角先生が何かいか来るうちに「おじいさん何をやっているんですか」。「わしは武術家だ」。それから色々話をするうちに、「おまも来てみろ」という事で習うようになった。
昭和16年より内弟子となり、倒れて身体が不自由になられた惣角先生の為に山本はご飯を作って食べさせたり、背負って風呂につれていったりと良く面倒をみた。
背中で惣角先生は「山本、すまんな、すまんな」と何度も言っていたといいます。惣角先生の腹には短刀キズがあったそうである。
それは用心深い惣角がいつも短刀を懐に入れて全国の門弟方を指導していたのである。指導中半分抜けて腹にキズが付いたもので、他の門弟方には知られていない。
明治初年頃会津地方であった事件での事で、書販物などでは50人も60人も相手にしたようであるが、あれは嘘である。その中の一部11人の土方ヤクザとケンカとなったものであり、縄でできた網のようになったモッコを頭からかぶせられたと言っている。それを切って逃れると追って来たので、3〜4人投げ飛ばした後で、相手の刀をとり3名ほど斬殺、裁判問題となったが後に無罪。
それいらい短刀は絶対身体から離さなかった、死ぬまで。昭和18年4月25日青森市旅館伊東方で死去85歳。死に水は一緒に供をしていた山本角義がとっている。
武田惣角先生は山本角義を大変氣に入っていたようで、山本は技の覚えも早い、記憶力を良いと褒めている。
幕末父武田惣吉が京都動乱時代(蛤御門の変)の勲功により、祖父惣右衞門が藩主松平容保(かたもり)公より絹で出来た紫の大羽織紐を賜っている。拝領した紐は江戸時代には家臣が身に付けることは出来なかったが、家宝としてあった物を、明治に入り惣角先生が身に付けている。写真がそれである。それを後に山本は大羽織紐と惣角差料大刀と大東流印、大東流總主と2字「角と義」の名を賜っている、末弟ながら位が高いのである。本に出ている写真がそれである。
山本角義は門弟3万余人の中で唯一合気の秘伝と真剣術を伝授されている。その合気之術とは、小手之合気、体之合気、氣之合気である。
希望があれば惣角直伝、大東流と真剣術を教伝します。御問合せ先をご覧ください。
苫小牧市長尾先生御宅の外観 | 苫小牧市第2霊園 |